come の使い方
2017年 01月 03日
「行く」と「来る」
日本語の「行く」と「来る」は移動の方向性だけが問題となる2項対立の関係であるが英語の go と come は日本語のように方向性の対立ではない。英語の go は日本語と同じく単なる方向性の問題であるが、come は移動の方向性にさらに聞き手の要素が加わってくる。聞き手が移動の方向の到着点にいるかいないかが問題となるのである。
(1)
a. I will come there tomorrow.
b. I will go there tomorrow.
英語では there 「そこへ」があっても (1a) とも (1b) とも云える。(1a) と (1b) の違いは聞き手がかかわっているかどうかの違いである。 (1a) は聞き手が there にいることが前提となっているのに対して (1b) はそのような前提がないのである。しかし日本語では「聞き手」の到着点での存在は関係ないので (1a) の直訳は非文となる。
(2)
a. *明日そこへ来ます。
b. 明日そこへ行きます。
主語が1人称以外の場合にも言える。
(3)
a. John will come there tomorrow.
b. John will go there tomorrow.
(4)
a. *ジョンは明日そこへ来ます。
b. ジョンは明日そこへ行きます。
(3a) は聞き手が話をしている現在か明日に「そこに」いることを前提にしているが (3b) はそのような前提がない。一方、日本語では「行く」や「来る」は話し手の到着点での存在は使い方にかかわらないので (4a) のように「そこへ」に「来る」を使うと非文となる。
(5)
a. I will come there tomorrow.
b. I will go there tomorrow.
英語では come は聞き手の到着点での存在を問題にするが日本語では話者の移動の方向性のみしか問題にしない。つまり英語の come の使用は話者と聞き手の両方を取り込むようになってくる。これは日本語では動詞の「行く」や「来る」という使い方とは関係ないが、deixis の「こそあど」とよく似ている。
英語では場所を表す「こそあど」は here と there (昔や yonderもあったが) の2項対立であるが、日本語の「こそあど」は話者からだけの1方向ではなく話者と聞き手の関係ともかかわる。「ここ」は話者の方で「そこ」は聞き手の方で「あそこ」は話者でも聞き手でもない方向である。どうもこのような聞き手を巻き込む言い方と come の聞き手を巻き込む言い方にはなにか関係があるような気がする。